飛虎将軍廟について
村を守って戦死した「杉浦茂峰」
1923年に茨城県水戸市で生まれた杉浦茂峰は、1944年の台湾沖航空戦に盛島大201海軍航空隊として出撃しました。(※出撃当時は「兵曹長」だったが、のちに「功6級金鵄勲章」「勲7等青色桐葉章」を受勲しており、死後は兵曹長から少尉に特進。)10月12日、杉浦少尉は台南上空でアメリカ空軍を迎え撃つも撃墜されてしまいます。その場で発火した戦闘機から脱出すれば助かったかもしれません。しかし杉浦少尉は眼下の村を巻き込まぬよう、住民のいない畑へと飛び去ったのちに墜落し、壮絶な戦死を遂げたと言われています。享年21歳でした。
第二次世界大戦後、村では不思議な噂が広まりました。「白い帽子と服を着た人が畑を歩いていた」また「白い帽子と服を着た日本の若い海軍士官が枕元に立っている夢を見た」という者が複数現れたのです。
「杉浦茂峰」に感謝し廟を建設
この体験をきっかけに村人たちは杉浦少尉が自分の命を犠牲に村人たちを守ったことを知りました。 村人たちは海尾朝皇宮の保生大帝に対して指示求め、その魂を鎮めるためと、村を守ってくれたことに対する感謝をこめて1971年に廟(お寺)を建てました。その際、親寺となった朝皇宮の保生大帝は杉浦少尉に「飛虎将軍」(飛虎は戦闘機、将軍は杉浦少尉への敬称)の称号を与えました。
廟が建ってからはたくさんの台湾人と日本人が飛虎将軍廟で行われるお祭りにやって来ました。そして飛虎将軍は徐々にこの地方の守り神となっていきます。
現在では毎日管理人が朝夕の2回、3本の煙草に火を点けて神像に捧げ、日本の国歌「君が代」と日本海軍軍歌の「海ゆかば」を祝詞として流しています。
日本式の神輿
2014年5月、東日本大震災時に台湾からのたくさんの支援に対して感謝をするため、台湾を訪れた日本人が虎將軍廟を参拝しました。その際、廟建設にまつわる話を耳にした三重県の中村文昭さんは、杉浦少尉と地元住民の話に感激しました。
そして、祭りの際に飛虎将軍が乗る神輿がないと知った中村さんは新しい神輿を作るための募金活動を日本で始めました。神輿のデザインは海尾朝皇宮の吳進池氏の協力を得て作られ、神輿の内部は大道公の神輿を参考にして作られました。外観は日本式の神輿を模しています。
神輿に使用する担ぎ棒は飛虎将軍の故郷の茨城県水戸市の檜が使用されています。
また、この神輿には釘は一切使用しないことで日台友好の意味を表しています。
日本からの神輿の奉納
2015年3月10日、神輿は台湾に届けられました。
中村さんは60人の日台友好団と共に飛虎将軍廟を訪れ、奉納儀式とお祭りに参加しました。
このような、日本人と台湾人が一緒に奉納式を行うということは台湾宗教歴史の中でも例がないことでした。
神輿は4月30日の「海尾大道公生平安行腳遶境」(飛虎将軍廟のお祭り)の際に正式に公開され、これをきっかけに今日の台湾と日本の文化交流が始まりました。そして、飛虎将軍廟には現在も多くの日本人が訪れています。